今日のテーマは「間」です。
間に関しては、昭和58年に出版された「間の研究」が名著です。南博氏が編纂した本で、様々な角度から間について語られています。
本書で多くの議論がなされているのが、歌舞伎の間についてです。
例えば「切られの与三」という演目で有名なセリフがあります 。
「え、ご新造さんぇ (間) おかみさんぇ (間) お富さんぇ (間)
いやさ、これ、お富(間)久しぶりだなぁ」
この(間)は、長さが変化します。この何も声を発していない間に、与三郎の感情が高ぶって行く様子を表現しているようです。
西洋では、声の調子や大きさや高さなどで感情を表現しますが、声を発していない部分で感情を表現するのは東洋や日本の 特徴ではないでしょうか。
演劇の神様とまで言われた六代目の尾上菊五郎は、間には二つあって学べる間と天性の間(魔ともいうそうです)があると述べています。
お笑いもそうですが、日本の伝統芸能の極意はこの間の使い方にかかっているといっても過言ではないでしょう。
間が悪い、間に合う、間が持たない、などの日本語は時間に関する間の表現かと思います。
日本舞踊は、この間を表現しますが、西洋の人がこの踊りを習得するのが大変だという話も聞きます。
西洋の踊りは、リズムが途切れることがなく、連続しているからです。静止が踊りの重要なファクターであるという概念がないからです。
バレーも流れるような連続性が踊りの美しさを表すからです。そのため逆に、歌舞伎の見得を切る、いきなり静止する表現ということが難しいのでしょうね。
それでは、空間の表現である絵画についてはどうでしょうか。
禅画に代表される日本画は、多くの余白があります。ほとんどが白地に、月と雁と山だけが描かれている風景画が秀逸と評価されたりします。
日本人ならなんとなく良さが分かります。
RA的な観点から見ると、時間と空間の把握の仕方の違いではないかと思います。
心のデトックスの第一回目のブログでも述べたように、宇宙には梵(ブラフマン)という実体しかありません。
この梵があらゆる現象を創り出すときには、必ず時間と空間という二つの要素で 表現するのです。
個人的な見解では、ART(芸術)と呼ばれるものは全て梵への回帰すなわち人間の本体を思い出す作業ではないかと思っています。
その作業の仕方が、東洋と西洋では全く異なるアプローチをしているのだと考えます。
東洋は、時間的には余韻、空間的には余白を強調することによって、何もない時空間すなわち梵を表現しようとします。
日本にはもともと自然と一体になるという感覚があります。自然は戦う対象ではなく、克服すべきものでもない、豊かな四季を愛でるものなのです。
それに対して、西洋では自然とは人や文明と分離をしていて、克服すべき対象と考えます。
そのため、時間的にはリズム、空間的には色と形で埋め尽くす作業によって、スキマのない「梵に近ずく」ことを目指しているのではないかと思います。
アプローチの方向は逆ですが、どちらも梵の想起という点では一緒です。
時の間と空間の間という2つのアイテムで梵が自分を思い出す時代に入ったとき、これからのアートはますます面白くなるのではないでしょうか。